日赤医療センターの桜

すっかり春になりましたね。皆さまいかがお過ごしですか。

今日は外来を受診してきました。日赤から桜を見ると、入院で失った季節やあの頃の症状がセットになって想起されます。

アレルギー・リウマチ科に行こうとした時、不意に川崎富作先生の笑顔が目に飛び込んできました。足を止めると子どもの頃の思い出があふれてきました。

 

 川崎先生が主治医だったことはありません。当時の日赤の建物は古く、小児科の診察室はカーテンで仕切られただけでした。小児科領域でも新しいお薬がどんどん開発され、症状を伝える度に処方薬が増えていった時代でした。待合室で不安そうだったお母さんたちがパンパンのお薬袋を抱えて安心した顔で帰っていたのを覚えています。

 

ある日、診察室から離れた普段使われない処置室の中から、あるお母さんと医師とのやり取りが聞こえてきました。普段の診察は時間通りに呼ばれることが多かったのですが、その日に限って待合室は混み合っていました。処置室の中から聞こえてきたのは、「薬を出してくれ」と男の子の横で泣いているお母さんと、子どもの長い人生を考えて必要な薬を必要な量だけ出すことの意義を伝えようとする医師との会話でした。医師の語り掛ける言葉は一つ一つが優しく、熱く、納得するまで寄り添おうとする深みに満ちていました。中学生だった私は圧倒される気持ちでその場面を記憶に焼き付けました。カーテンを除いた看護師さんがその先生を「川崎先生」と呼んでいました。

 

小児血管炎は当時、診断基準が確立されていませんでした。症状を伝えると詐病を疑われ、重症化しても治療手段がありませんでした。そんな中、日赤の小児科チームの先生方があらゆる手段を使って治療を試みてくださいました。私の命は当時の小児科チームの皆さんにいただいたものだと感じます。

 

近年は“病気をもつ人のQOL”を知ろうとする研究がたくさんあります。しかしそんな研究が始まるずっと前から人と人との関わりの中で親身に寄り添い続けてくれた医療者達が存在していました。先生方と同じ時を生きた身として、そして心理臨床家として、恥じない生き方をしようと改めて感じた春の一日でした。